戦史 占守島の戦い

昭和20年8月15日、戦争は終わったはずだった。しかし、北海道や東日本に領土拡大の野心を持つスターリンの命令でソ連軍は国際法を無視して侵攻を始める。鎧袖一触で占領するはずの北の島にいたのは精鋭の日本軍だった・・・。
今日は71年前の今日、千島列島の占守(しむしゅ)島で起こった出来事を書こうと思います。
千島列島は昭和20年まで日本の領土でした(そして今も正式には択捉、歯舞、色丹、国後は日本の領土です)。真珠湾攻撃に向かった機動部隊は択捉島から出撃していますね。さて、太平洋戦争開戦以降、千島列島北端占守島ソ連との国境警備の最前線として、北方から侵攻してくるアメリカ軍を警戒する重要な拠点として基地化が進められてきました。また北方の海の恵みは国内の食糧事情を支える重要な漁場だったのです。ですが、実際は荒天の多いこの海域ではアリューシャンの戦い以降目立った戦いはなく、両軍とも小競り合い程度の戦いばかりでした。しかし、戦況が日本側に不利になってくると、この地は本土防衛の最前線となり、島全土を要塞化した縦深防御でアメリカ軍を迎え撃つ体制を整えるようになります。戦力も満州から精鋭の部隊が配備されるようになり、アメリカ軍侵攻を迎え撃つ体制は整いつつあったのですが、昭和20年8月15日に終戦となり、日本軍は全ての戦闘行為を中止する命令を受けます。
さて、ここである人物を紹介したいと思います。

日本陸軍戦車第十一連隊連隊長の池田末男大佐(戦死後少将)。「戦車の神様」と呼ばれた池田大佐は質素な生活を心がけ、身の回りの事は全て自分で済ませる(当時は当番兵にやらせるのが普通)、部下には気さくに接する素朴で思いやりあふれる人物でした。戦車学校や陸軍士官学校を始めとする日本陸軍の教育部門を転々とし、戦車第十一連隊連隊長を拝命して占守島に赴任する時も、身の回りの品は柳行李(今でいうトラベルバック)一つだったそうです。政府が進めた学徒出陣(大学生の徴兵して兵役に就かせる)を「国の宝である大学生を徴兵するなど、教育の大切さを知らない愚かな行為」と公然と批判し、部下達にも「戦争が終わったら必ず必要になる」と英語や数学の勉強を自ら指導するなど、教育熱心な一面もありました。終戦の日士官学校の後輩が「これからどうします?」と聞いたところ「そうだな、ロシア語もできるようになったし、通訳でもやろうかな」と気さくに答えたそうです。
しかし、運命の歯車は回り始めていました。
8月17日深夜、正体不明の軍隊が占守島竹田浜に上陸しようとしているのを近くの監視哨が発見。闇の中からロシア語が聞こえる事から、ソ連軍と断定し司令部に連絡します。占守島を守る第91師団の堤師団長は断固反撃する(ソ連軍の行為は明らかな国際法違反であり、このような国際法を無視した戦闘行為については反撃を許可する命令が出ていた)よう下令し、武装解除準備をしていた部隊に出撃を命じました。18日未明、出撃準備の整い整列する部下達に、池田大佐は問いかけます。
「この国家危急の中、皆に問いたい。あえて赤穂浪士となり恥を忍び屈辱に耐えて将来の反攻に備えるか?それとも白虎隊となり民族の防波堤となって玉砕し後世の歴史に問わんとするか?赤穂浪士たらんとする者は一歩前へ、白虎隊士たらんとする者は手を挙げよ。」
部下達は右手を一斉に挙げて「応」と答えます。一歩前に出た者は一人もいません。池田大佐は直ちに戦車に搭乗、敵を撃滅するよう下令し自らも戦車に搭乗、戦場へ出撃します。
「戦車隊はこれより敵撃滅に向かう。祖国の弥栄(いやさか)を祈る」(池田大佐の訣別電より)
戦車第11連隊は九七式中戦車(チハ)、九七式中戦車改(新砲塔チハ)、九五式軽戦車で編成されていました。はい、皆さんの好きな「チハたん」が主力です。チハは悪路走破性が高く、対歩兵戦闘に強い戦車でしたが、この時はそのチハの長所が存分に発揮されました。戦場に到着した戦車隊は瞬く間に進出してきたソ連軍歩兵部隊を撃退し、その後方に集結しつつあったソ連軍主力に向けて突撃します。戦車隊は戦車砲で、機関銃で、キャタピラで敵兵を蹂躙しました。このまま撃退できるかと思われた頃、ようやく当初のパニックから立ち直ったソ連軍は対戦車戦闘を開始(輸送船の能力から戦車は島に持ち込めなかった)します。ヨーロッパでドイツ軍戦車相手には効果の薄かった対戦車ライフル(成形炸薬弾を打ち出す大型ライフル)でもチハの装甲を抜くには十分な威力があり、次々と日本側戦車は行動不能となっていきました。池田大佐のチハも対戦車ライフルによる射撃で被弾炎上し、池田大佐は戦死します。迅速な移動を重視した為に随伴歩兵を連れていなかった事が致命的でした。戦車第十一連隊は連隊長をはじめ、中隊長4人のうち3人が戦死、27両の戦車を失う大損害を出しながらソ連軍の進撃を阻止、他の部隊も敢然とソ連軍を攻撃しソ連軍を竹田浜に追い詰めます。朝になってからは、海軍の攻撃隊(九七式艦上攻撃機4機)もソ連艦船への攻撃を開始。日本軍は次第にソ連軍を撃退しつつありました。しかし、18日午後には札幌の第五方面軍から停戦命令が届き、日本軍は反撃から防御戦闘へ切り替えます。また停戦交渉を行う軍使もソ連軍に送られ、停戦交渉を開始。その間も戦闘は続き、日本軍側は交渉を引き延ばしつつ、まだ島に残っていた民間人を脱出させました。21日、日本軍は武装解除に同意し降伏。捕虜となった日本兵はシベリアへと送られ長い抑留の後、日本に帰国することになります。
ソ連軍は占守島を落とすことに手こずる間に、アメリカ軍とイギリス軍が北海道に進駐する声明を発表した事で、スターリンは北海道の占領を断念しました。しかし、日本固有の領土と国際的に認められていた択捉島色丹島歯舞諸島国後島は未だにロシアが占領し続け、返還の目処は立っていません。
もし、占守島で日本軍の奮戦がなければ、北海道や東北地方は「東日本社会民主主義共和国」なんて名前で違う国になっていたかもしれませんね。
占守島の戦いについてはこちらの本がオススメ。

終わらざる夏 上 (集英社文庫)

終わらざる夏 上 (集英社文庫)

終わらざる夏 下 (集英社文庫)

終わらざる夏 下 (集英社文庫)

8月17日、ソ連軍上陸す―最果ての要衝・占守島攻防記 (新潮文庫)

8月17日、ソ連軍上陸す―最果ての要衝・占守島攻防記 (新潮文庫)

占守島で奮戦した戦車第11連隊の伝統は、陸上自衛隊戦車第11大隊に受け継がれ、今も北海道を90式戦車で守り続けています。
「祖国の弥栄を祈る」
今も占守島に残る朽ち果てた九七式中戦車は僕たちにそう語り続けているように思えます。
過去に思いを馳せつつ、祖父たちの世代に深い感謝を。