『機動戦士ガンダムUC』エピソード7「虹の彼方に」

仕事の都合で公開日から1日遅れの18日の日曜日の夜に宇都宮のMOVIXで観てきました。

機動戦士ガンダムUC』の最終話エピソード7「虹の彼方に」、当初6話の予定が1話追加となり、制作発表から随分と待たされたような、あっという間だったような、ともかくもユニコーンガンダム宇宙世紀を根底から覆しかねない事実を秘めたラプラスの箱を巡る物語は終章を迎えました。
観終わった感想は?となると・・・
やっぱり泣いちゃいました
になるんでしょうかねぇ。一通り原作を読んでいて、その結末もある程度分かっていても、マリーダ散華のシーンは涙が止まりませんでした。
「貴方は私の光でした。ありがとう、お父さん。」
もう、この瞬間に涙腺崩壊です。僕にとって今作のヒロインはオードリー(ミネバ)ではなく、やっぱりマリーダ。1年戦争という絶望の中から生まれた「ニュータイプ」という希望と呪い、そしてその力を都合よく欲する者達の歪んだ妄執によって生み出された「強化人間」という人間兵器。その悲しみを幾度となく観て知っているからこそ、彼女の方がヒロインとして僕には映ったのでしょう。
彼女が散るシーンは実はファーストの『機動戦士ガンダム』へのオマージュではないかと考えています。原作ではマリーダを撃った後、リディは激しく後悔し泣きながら呻きます。
「俺は取り返しのつかない事をしてしまった」
と。これはアムロララァを撃墜した時につぶやいた言葉であり、小説版『機動戦士ガンダム』で停戦を呼びかけるアムロを撃墜したリックドムパイロット、ルロイ・ギリアム中尉が呻いた言葉でもあります。どちらかというとリディの呻きは後者の小説版のイメージなのかなぁ。様々な人々に彼女の声が届いて行くシーンは小説版でアムロが同じように様々な人々へ語りかけていくシーンを彷彿とさせますから。
そしてマリーダを撃ったリディも『UC』のもう一方の主人公と言って良いでしょう。可能性を信じて、どんなにつまづいても前へ進むバナージに対して、可能性を信じながらも現実の壁を知り、己の限界にぶつかり、可能性に絶望した彼が描かれたからこそ、バナージの光はより一層輝いて見えるのですから。そんな彼の頑な心をマリーダの魂が優しく包んだ時、リディとバンシィは「怒れる獅子」から「誇り高き獅子」へと生まれ変わるのです。バナージとユニコーンに対するダークヒーロー的な立ち位置に彼らはいるんでしょうね。だからこそ、終盤のバンシィの覚醒を見た時にも思わず涙が出てきました。
さて、映画本編ですが、もうキレッキレに切れまくったメカニック演出と作画、芸術的な映像によって90分という時間を感じさせない素晴らしい内容でした。もう「これでもか!」ってくらい懐かしいMSの数々は、逆に言うとそこまでネオ・ジオン=袖付きが追いつめられているとも、ネェル・アーガマ攻撃部隊はフル・フロンタルにとっては遅滞戦術の為の捨て石だったとも取れますが・・・
ギガンはないだろうよ、ギガンは・・・
しかも宇宙用って・・・。まあ、それは置いといて、ネェル・アーガマの艦上で爆煙の中からまるで某ユパ様の如き登場の仕方をしたシュツルム・ガルスと、これまた某シティハンター張りのあざといビームガンの持ち方で迎撃したコンロイ少佐のジェガンのガチバトルは観ていてマジで燃えました!いやぁ、コンロイ少佐のジェガン、キット化してくんないかなぁ。もちろん、メガバズ付きで♪
それ以外にも、ようやく本来の使い方をしていたバウやズサ、重武装を外し高機動型として運用していたスタークジェガン、終盤に登場のシルヴァ・バレトまで、どのメカも活き活きと描かれていました。それにひきかえ、地上のゼータプラスグスタフ・カールは・・・まあ、今回は「顔見せ」ですかねぇ。この先に「センチネル」や「閃光のハサウェイ」の映像化があるかどうかは分かりませんが。
それとハイパーメガ粒子砲の使い方も戦術的に描かれていましたね。先行した早期警戒型ジェガンネオ・ジオン艦隊を捕捉し、その位置データをネェル・アーガマにレーザー通信で送って、そこから発射シークエンスに移行するシーンは原作とは全く違います(原作ではハイパーメガ粒子砲を使わせないようにネオ・ジオン艦隊の方が戦術を凝らしていた)が、逆にネェル・アーガマに見せ場を作って良かったと思います。一方でネオ・ジオン艦隊の描写が希薄だったのは「尺」の関係とは言えちょっと残念でした。
それとフロンタルがネオ・ジオング単機で出撃した理由も描いて欲しかったなぁ。おそらくは「その後」を見越して基幹戦力はレウルーラに温存していたのでしょうが、フロンタルの思惑・・・みたいな部分があったのは確かでしょう。
まあ、いくつか気になった事はありましたが、ラストシーンまで本当に楽しめたし、感動できた映画でしたね。
この『機動戦士ガンダムUC』という作品は「人の心の光がもたらす可能性」を描いた作品だと思っています。では、その「可能性」が示された後、人々はどのように行動し、地球圏はどのように変化したのでしょうか?
実は劇的な変化はありませんでした。
「箱」の開示による混乱は一時的なもので、宇宙世紀100年にはジオン共和国は自治権を連邦に返還し、地球連邦による統一的な支配が確立していきます。一部のテロリスト達が混乱を引き起こそうと(その中にはマフティーのテロも含まれる)しますが、それも圧倒的な力の前には意味は無く、表向きは「停滞」と言っていい時代へと移って行きました。
ですが「小さな変化」は確実に起こっていくのです。
ラプラス事件」後、地球圏のパワーバランスを影でコントロールしていたアナハイム・エレクトロニクスは少しずつその影響力を弱めていきました。混乱の時代から安定の時代へ移る中で、軍事力の縮小は確実に行われ、かつてのような大型で強力なMSは必要とされなくなっていきます。トータルコストパフォーマンスが重視され、MSの小型化が提唱されるようになった時代、アナハイムが次世代MSとして送り出したRGM-105ヘビーガンは芳しい評価を得られず、逆に連邦軍の外部研究機関であったサナリィに主導権を次第に奪われいきました。そして110年代に行われた、次期主力MSの試作コンペでアナハイムのMSA-120はサナリィが送り出したF90に惨敗、F90をベースとした量産型(F71やジャベリン、ジェムズガンなど)の製造権こそ手にしましたが、それ以降もアナハイムサナリィの技術力に太刀打ちできず(非合法に手に入れたF91の設計図を元に挽回を図ろうとしたが失敗)、更には過去の様々な事件への関与が暴露され、次第に没落の道を歩むようになります。
加えて地球圏にも少しずつ変化が起こっていきました。地球連邦の統一的な支配の中で、各サイドは次第に経済的な自立を確立し、経済的に地球と同格になっていきました。その経済成長が反動となって、スペースノイドの間に貧富の差が深刻化してクロスボーン・バンガードのような存在を生み出す温床となっていきますが、それでもその経済力に地球は宇宙を無視した政策を行うことが難しくなっていくのです。
宇宙世紀130年代、地球連邦は中央政府機関の多くを月へ移転する決定をします。エゥーゴブレックス・フォーラーが提唱した「地球連邦政府機能の宇宙への移転」は連邦議会で提案されてから約50年たってようやく結実したのでした。そして地球連邦自身も中央集権的な政治体制から、各サイドの代表も加えた緩やかな合議制へと移行していくのです。
まあ、その間に今度は各サイド間、各コロニー間の経済格差が深刻化してザンスカール帝国の台頭が始まるんですけどね。
それはそれとして、物事を動かすにはそれくらいの長い時間が必要だって事です。皮肉にもフル・フロンタルが提唱した「サイド共栄圏構想」に近い形が生み出されていくのですが、その一方で地球を孤立化させるのではなく、連邦政府そのものを宇宙へ移転させたのは、やはり「箱」の開示が人々に「宇宙世紀への願い」を確実に呼び起こさせ、少しずつ改革を進めていった結果なのでしょう。
人は心に「可能性という光」を信じる限り前に進み続けることが出来る。それは暗闇の中では灯火にもならないかもしれない。しかし、暗闇に閉ざされた現状に対して「それでも」と言い続ける限り、人は己の心の光を灯火に前に進めるのだ、たとえどんなに小さくても。
この作品は、それを僕らに訴えようとしているのかもしれませんね。
ネット配信もされていますし、DVDも発売が決定しています。ですが、近くで劇場公開されているのなら、一度ぜひ劇場へ足を運んで観てみてください、その価値は十分にあります。まだあと1週間ありますから。
言葉まとまらない感想で申し訳ないのですが、本当に素晴らしい作品だと思います。